ぐでぐで喋る

とりとめなく書いていくブログです。

なぜ私達はあなたにここまで惹かれるのだろう?

はじめに。普通こういう類のエントリーは近くで見てきた、またはずっと現地に通って見てきたみたいな方がするべきかもしれませんが…。現地観戦の経験すら無い(いわば「在宅」)一介のサポーターがこうした駄文を綴る事をお許しください。

 

「推し」と称するのはおこがましい…もはや「神様」と言うべきかもしれない、そんな存在の方が私には20年間いました。

 

 

報道があった日から書き始めました。今ひとつ彼の実績や素晴らしさが分からない…という方も少なくないでしょうし今後更に増えていくでしょう。その方々のためにも、まだ事実を受け入れられてない自分にけじめをつけるためにも書こうと思いました。

 

「日本サッカー界で最も美しい物語の主人公」

出典:

3年前の記事で出てきたこの言葉。この言葉が本当に当てはまる、あまりにも物語性に溢れた40年間。「華がある」という言葉も当てはまります。

 

彼を「天才」という言葉だけで括るのは明らかに違う、「天才と努力の両輪の人」だと思ってました。ですが次第にそれでも足りないと思うようになりました。では何が適切なのか…?今年のシーズンが始まってすぐ、そんな事を考えていました。

 


 

一体どのタイミングで彼を知り、惹かれたのか。

各人差があると思いますが私は「そこ?!」と言われそうなタイミングで彼に撃ち抜かれました。

 

2002年5月2日ホンジュラス戦2点目

 

つい先日香川さんが同じようなのを決めましたが、それまで日本人で同じようなの決めてるのは記憶にありません。(しかも15年後にも同じようなのを決めてるという…)何度思い返しても凄まじ過ぎます。

その直後の顛末は…多くの方がご存知でしょう。

しかし怪我の話も聞いていたためか私はそこまでショックは受けず。

「こんなにうまい人なんだからいつか別の何処かの回で活躍するはず、その時を見たいなあ…」

そう信じていました、その時は。

 


 

巷のサッカー選手のイメージとは明らかに離れている第一印象、だけども私はそれがとても格好良く思えました。

第一印象のせいか「寡黙で淡々としてて…」みたいなイメージですがちゃんと見ていればそう言い切ってはいけない事が分かります。そして歳を重ねるごとに「寡黙で…」との印象は薄まっていきました。

サッカーに全てを捧げ、懸けている

本当にこの言葉通りの人でした。

そしてまだプロ入りから6年というタイミングでも既に実力と物語性に溢れていた人でした。

だから私は彼に凄まじく惹かれていきました。

 

 

陽と、陰。

それからの…7年ほどと括れば良いのでしょうか?

その中で起きたあまりにも凄まじ過ぎるエピソードを3つ挙げましょう。

 

(1)彼は人生で一番印象に残る試合として2001年3月のフランス戦を挙げています。彼が猛批判された試合でした。その2年後、同じフランスを相手にして…。

 

(2)上の試合後に勤続疲労?による怪我が治らず、代表でのポジションが危ないとされていた時期がありました。「ここで結果を残さないと終わりだ」との思いで挑んだ2004アジアカップ1試合目のゴールがこちら。最終的に大会MVPを獲得、彼が憧れの存在としているジダンがこのゴールを「今年一番のゴールだ」と称えたという噂あり。

 

(3)上の試合から約一年後に開かれたコンフェデ杯にて。とある記事で「自分は得点の形がない」と語ってましたが時々流れの中でこういうぶっ刺すようなシュートを決めています。ブラジル代表は当時世界ランク1位。これが無かったら「セルティック中村俊輔」は無かったかもしれないようです…。

 

マンU戦のFK2本は?」と思ったでしょう、その凄さは多くで語られてますのでわざわざ語り直さなくても…という事にしておきます。

 

…ここまでの7年ほどの多くがいわば「陽」の期間でした。称賛をさらっていた一方で、彼がずっと夢として語っていた「リーガ・エスパニョーラでのプレー」は叶わない年月が続いていました。2008年1月には「その夢は諦めかけている」(要約)とインタビューで語った記事が出ました。そして1年後、セルティックからマリノスへ戻る…はずだったのが色々あり夢が叶うことになりました。

 

一時は叶わないのかと思っていた彼の夢が叶ったのは本当に嬉しかった、ですが世の中甘くないと感じたその後半年。

それだけではありません、マンU戦の前にもそしてスペインを道半ばで去った後も…。彼にとっての「陰」の期間がありました。

 

時計を巻き戻して2006年6月12日、ようやく彼がワールドカップのピッチに立てた日。幸運な形で決まったゴール、「やっと待ち望んだ日が来たんだ」という私の胸の高鳴りは…あっという間に打ち砕かれました。そして、大会後の彼の姿に私は打ちのめされました。

 

それからの4年間。当初は代表から外れていましたが、私は全く不安になりませんでした。そして気づけば、単に攻撃の中心…だけの存在では無くなっていました。

事実上のキャプテンとも言えるような。

だけど本番が近づけば近づくほど、悪い予感が頭をかすめる頻度は上がっていきました。

マリノスに戻り、数試合を戦ったところで悪い予感は振り払われた…かに思われたところでアクシデント。その時に感じたそれまでの何よりも確信的な悪い予感は、悲しいほど見事に的中してしまいました。

12年が経過した今でも「あの時の代表が1番」と言い切れるぐらい、あの大会で私は心を動かされました。

しかしその感動でなんとか覆い隠されていたのは、「もう望んでいた光景を見る事はできない」という事実でした。

 

 

大会後。数年ほどで、2010年の主力メンバーが輝く陰で彼の現役生活がひっそりと終わる事も覚悟しました。ですが、「俊さんはこんな形で終わって良い人じゃない」という思いのほうが心を占めていました。

 

2011年、マリノスのキャプテンに。

いつか何の試合だったか忘れてしまいましたが、キャプテンマークを渡されても断っていたシーンが記憶にありました。

なので少しの驚きがありました。

それからの2年間は紆余曲折あったけれど、着実に前に進んでる感じがしました。

 

そして2013年。

ただ「天才」だけで括ってはいけない姿が、「淡々と…」だけではない姿がありました。

なのに、残酷さを突きつけられた最後。

とても虚しくて辛くて悲しかった。

それでも、同じぐらいに嬉しさがありました。

このままで終わらなかった、それどころか新しい姿を見られた事に。

 

それからの9年間も紆余曲折ありましたが、何度も凄いシーンを見る事ができました。

一番記憶に新しいのはこちら。

「切り札的存在になりたい」…シーズン前に口にした言葉を彼は現実にしました。

 

サッカーに限らず、あらゆるスターがいますがだいたいは「陽」の部分だけをピックアップして語られている感じがあります(カズさんは少しそれから外れている感じがありますが)。

しかし彼は「陰」の部分も含めて…彼の言葉を借りるなら「谷」から「山」へ向かっていく姿を含めて、語られている、そんな感じがあります。

何度か同じような趣旨の意見を目にしたことがありますが、「陽」も「陰」も引っ括めて認められている、そんな存在は稀有ではないでしょうか。

 

 

だから私達はあなたに惹かれる

さて、冒頭のお題を言葉を変えて改めて。

「俊さんの魅力を、一体どんな言葉で表現するのが適切なんだろうか?」

この問いが私の頭の中を回りだしたのは開幕戦が終わってすぐでした。試合後に足を引きずる姿を見て、おそらく今年でもう最後だろうと予感しました。それと同時に今一度なぜ彼に惹かれるのか考え直していました。紙の上に書き出すという作業をしながら。

 

「天才と努力の両輪の人」だと思ってた。ですが次第にそれでも足りないと思うようになった…と先程挙げました。

 

私が彼に撃ち抜かれて抱いた思いが破れてから(つまり2010年の後から)、穏やかな表情をした彼を見ることが増えました。 

そしてこの位を境に、「え?あなたは神ですか??仏ですか????」と真剣に思う話が増えていきました。

代表的なのだと2017年リーグ最終戦後ですとか…。今年初めの高校サッカーでは、当時桐光学園の山市秀翔選手についてのエピソードが紹介されていました。彼はマリノスのジュニアユースに上がれなかったのですが、その際に俊さんから言葉を頂いたと。私が不勉強なだけかもしれませんが他に同じような話を聞いたことがありません。

歳下の後輩が彼を語る際に「人間性」という言葉を用いていた事が多いのですが…「底知れない優しさ」と私は表現したいです。

 

 

問いの答えはここで終わりません。考え続けて、もう一つ大事な事に気づきました。

 

 

「彼女は、最後の10年を生きる。まるで、人生の始まりみたいに」

…これは映画『余命10年』予告編冒頭の台詞です。

 

どんなにキャリアを重ねても、彼は少年のような純粋さを持ち続けたままでいました。

一体なぜあなたはどんな辛いことがあっても、「地獄」があっても、純粋なままでい続けられるのですか?

その姿は誇張抜きで眩い光のようでした。

 

天才と努力の両輪の人。加えて、純粋で理知的で底知れず優しくて。

だから私や、あらゆる方々が惹かれていく。

それが私が考えて出した、問いに対する結論です。

 

 

時が来た、だけど。

開幕戦が終わった後の予感は先に挙げた水戸戦で吹き飛びかけました。

ところがその直後の試合からフッといなくなってしまい、一時は戻ってきたものの気づいたらまたいなくなり…関係者席にすら居なかった時もありました。

いつしかメンバー表に名前がない事に慣れてしまった、そんな自分が情けなく思えました。  

 

予感が現実になろうとしている、その時は来て欲しくない、だけど…私はずっと揺れていました。

そんな最中で上がった記事:

 

揺れている中でも少しは落ち着けていたのは、十人十色、個性を発揮して突き進む横浜FCのメンバーを見ていたからです。

 

いよいよ昇格が決まろうとする日が近づく、そして予感の当否が分かる…。体調まで悪くなってしまうぐらいでした。

 

そんなこんなで寝てたら昇格は決まり、試合は負けてしまい、ふと目に飛び込んだ早刷りの紙面の画像…。

それで一気に目が覚め、検索したらいくつもの「俊さんすごいよね」という言葉がありました。

 

ぐるぐる回る感情。

数年で終わるかもしれないと覚悟した現役生活は12年続いた。凄いことです。

その時は必ず来ると心の準備を何度もしていました。

なのに、なのに、どうしても受け入れる事は出来ませんでした。

色々なことを思い返して何度も泣きました。

 

翌日に正式発表、冒頭に貼ったコメント。記憶の限りこういったコメントで見たことが無い言葉が用いられていました。

ご協力ありがとうございました

 

この言葉で思い出したのは9年前、アウォーズでの姿。

ああ、そういう人なんですよねあなたは…。また泣きました。

 

現在の私のTwitterのヘッダー、元々はこんなものでした。こんな広告はあとにも先にも見たことがありません。
f:id:noirchocopie:20221020120952j:image

 

「お疲れ様でした」ですとか、「次の人生も…」的な言葉を発することは今の私にできません。まだ事実を受け入れられてないですし、書いてる時点で終わりは来てないはずなので。

 

私が望んでいたのは「幸せな「最期」を迎える」事でした。

6年前にその思いはより一層強くなりました。

 

そしてその時に、心の底から「ありがとう」と言いたい。それが今思うことです。

 

その日を越えてから(2022/11/9加筆)

最後の試合が終わった直後。「あれ?意外と大丈夫…?」と思いましたが、甘かったです。

 

最後の劇的勝利で感情がマスキングされていただけ。

それからも、受け入れられたと思う瞬間と「駄目だ、やはり受け入れられない」というのが行ったり来たりしています。本当に波のようです。

 

情けないことに、今になってもまだ上のような言葉を発することはできません。

さらに情けないことに、「ありがとう」もまだ言えません。現実を認めてしまうのが嫌だ、と心の何処かが拒否しています。

 

だけど事実をすんなり受け止めてない事を、どこか安堵しています。

それぐらい、大切な存在だったという事の証明ですから。

 

可能な限り、この人が活躍する姿を見ていたい。

活躍したら、自分のことのように…どころかそれよりも嬉しい。

少しでもこの人の考え方が分かるようになりたい、と思って勉強したり。(悲しいことに進歩しないですが)

おかしな表現・考え方だと思いますが…「報われて欲しい」、そう思ったことは一度や二度…なんて回数ではありませんでした。

ただプレーに惹かれた…だけではここまでいかなかったという確信があります。

 

明日また現実を認めないといけない時がやってきます。「来ないで欲しいな」と思ってしまったのも数度。

時間をかけて、ゆっくり受け入れていくしかないのかもしれません。

 

 

色んな感情を味わった、一生ものの20年。

そんな年月を過ごせて本当に幸せです。

 

 

最後に(読まなくても良いです)

さて「20年も追ってるならどこかしらのタイミングで見られたよね」という突っ込みがありそうですがことごとく色々と合わず。

 

7年前にはこちらにも。

マリノスタウン

 

関西住みの私がなんと無くなる年にここに行けた幸運。ですがちょうどリーグ杯の遠征日でほぼもぬけの殻でした…。

 

引退試合はまだ分からない前提で)

今後客席から何らかの形で彼を見られる可能性はある。(10年前はS級ライセンスを取りたいと明言していましたが今はどうなのか)

その可能性はあるので色々な面で備えておくとして…神様を目の前にする…そんな日が万が一来たら私は一体どうなるのか想像もつかない。膝から崩れ落ちるのだろうか、泣き崩れるのだろうか、それとも…。

考えるのはやめておきます、はい。